IT2016報告集_個人8

第4回海外学習助成事業の報告集 1年 TGS さん

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イタリア3都市(Milano, Firenze, Roma)を巡る6泊8日の旅

イタリアの建築と発展

事前学習
自分はイタリアに行く事前学習として、建築を中心に学びました。そこで学んだこととしては、自分たちが行く3都市では、ミラノではゴシック様式、フィレンツエではルネサンス様式、ローマではローマ様式といった異なる様式に分類される建物があるということ。また、ゴシック様式では尖頭アーチ、ルネサンス様式では古典古代への回帰など、外見的特徴だけでなく、当時の思想が表れていることがわかった。
現地活動
各都市の特徴
ミラノ

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イタリア国内で第1位の商業都市であり、人口も国内ではかなり多いが、ここ最近物価の高騰などにより市外への移住が進むドーナツ化現象が起きている。市内には日本で言う銀座のようなところもあり、高級車でACミランの選手が来るということもあるそう。一般的には軽自動車が多かった。また、軽自動車の縦列駐車がよく見られ、ほとんど隙間なく駐車されていた。ガイドさんによると、多くの軽自動車は中古で、縦列駐車の際には、少しずつ前後の車にぶつけてスペースを作っているらしいです。
ミラノはイタリア国内でも最大級の商業都市になるため、左の写真のような近代的な建物も多い。一方で町の様々なところに城壁の一部が残っており、マンションの建物も現代の鉄筋コンクリートのものはほとんど見られず、趣ある建物が多く見られた。
また、ミラノの中央の駅も日本で見られるのとは異なり、石造りの趣ある巨大な建物でした。

スフォルツァ城

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スフォルツェスコ城とも呼ばれるミラノにある、1450年にミラノ公爵によって建てられた要塞。16~17世紀にも増築され、ヨーロッパ有数の城になったが、1796年にナポレオンにより、一部の施設が破壊された。
この要塞と呼ばれる城には、軍事施設と王宮が一つになっている。軍事的な一面には鉄砲を放つための要塞の壁にあけられた穴、城の周りの堀、兵士の暮らす兵舎がある。こういった施設が、ルネサンス期は華やかな一方戦乱の世であったことも示している。また、軍事的に優れた城であったため、この地域の支配者が変わってもそのまま利用されていたそうです。日本の城と違い横に広い、どっしりとした感じの城で圧倒されるほどの威圧感を感じた。王宮としての一面としては、王様のわがままで王室まで馬で行くためにつくられた一段低く幅のある階段、もしものときに逃げるための地下通路が存在するなどが王宮としての一面です。
また、町全体がこの城を中心に考えられており、城壁が町を囲むようにつくられていた。城壁外は農地と隔離病棟があった。今でも、市外にでると畑がずっと続いている。高速道路沿いに地平線が見えるほどだった。また、飛行機内から見ると日本でいう十勝平野に似た光景でした。

ドゥオモ

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通称ミラノ大聖堂。ドゥオモとは基本的に町で最も大きな教会を指す言葉。ただし、ローマには巨大な教会がたくさんあるため、ドゥオモは存在しないとのことです。
この教会はゴシック建築の大傑作と呼ばれるほどすばらしい教会です。日本ではちょうど明治維新の頃に完成したと言われています。完成するまでに約400年もの月日を要したそうです。内部の広さが世界第3位の教会です。教会の上部にいくつもそびえ立つ尖頭や、黄金のマリア像も美しいですが、自分が最も感動したのは、この壮大な建物の壁にある一つ一つの細かい彫刻です。現代の技術でもここまで大きな建物を建てることは大変だと思われるが、それを数百年前の技術でここまで細かい装飾を加え建設した、という点に宗教の信仰の力に震える思いがした。また、この教会には内部にも建築的な特徴をもっている。それは、天井のヴォールトです。左の写真の構造のことで、アーチの形に比べて高さがでるのが特徴です。これは、少しでも天へ近づきたいという当時の建築家の考え方の表れです。実際にドゥオモの内部に入ると奥行だけでなく高さのある内部空間に圧倒されました。

まとめ(ミラノ)
ミラノは商業都市としての技術の先端が町にあらわれている部分と歴史的な建物、風景を見せる部分が共存している都市でした。日本でいうなら東京に近いイメージを持ちました。

フィレンツェ

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次にフィレンツェです。この都市は特に芸術と観光の都市です。そんなこの都市には厳しいルールがいくつか存在します。まず、建物や芸術作品を守るために車での市の中心へのアクセスは禁止になっている。そのため、イタリア国内で最もスクーターの多い町です。また、団体でのバスで市内に入った場合二泊で440ユーロものお金がかかる。さらに、町の景観を保つため新しい建物の建設は一切禁止になっている。このため、建物の内装を変えることで店を出している。なので、ホテルの壁なども薄い場合が比較的多いので宿泊の際には注意しなければなりません。また、美術館のセキュリティも空港内並みに厳しく、手荷物の検査もあるので、あまり多くの荷物を持っていると苦労します。このような努力の上に、上の写真のような景観が保たれている。その町の美しさはまるで、ルネサンス期にタイムスリップしたようでした。
では、なぜこの町が芸術で有名になったのか、というと元々フィレンツェは商人の町であったので、様々な文化が行き来しやすい環境にあった。また、ルネサンス期にフィレンツェを支配し、イタリア国内でも最も名声を得た貴族の一つであるメディチ家の影響が大きいです。メディチ家の財の源は銀行で、そこで得た莫大な富をもとにして多くの才能ある芸術家に出資して、多くの絵画を所有していました。そこには、メディチ家の人達の芸術をこよなく愛する精神と芸術家の才能を見抜くセンスが大きく関わっています。代表的な画家としてはボッティッチェリが挙げられます。
そんなメディチ家でしたが、最後は子宝に恵まれず絶えてしまいます。その最後の直系の人物がアンナ・マリア・ルイーザでした。彼女の遺言に「メディチ家のコレクションがフィレンツェにとどまり、一般公開されること」を条件にトスカーナ政府に美術品を寄付したことで、フィレンツェエは芸術品で溢れる町となった。商人の町、メディチ家の存在がフィレンツェをルネサンスの中心の都市にしました。フィレンツェは絵画ばかりではなく彫刻も有名で、シニョーリア広場では多くの彫刻が並んでいます。以上がフィレンツェの町の特徴です。ここから建築物についてふれていきます。

ウフィツィ美術館

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フィレンツェでも有名な美術館であるウフィツィ美術館について建築の面から探っていきたいと思います。そもそもウフィツィ美術館は美術館として使用される以前は、メディチ家の支配のための官庁として扱われていました。行政の機能を一つにまとめられているためこれだけ大きな建物となっています。しかし、貴族が建てたものとしてみるなら外見の装飾が少し控えめであるといえます。他のメディチ家の人達の建てたものも外見を控えめにしているものが多いです。これはなぜかというとメディチ家は元々地方貴族の成り上がりであったため、あまりに派手にすると周りの貴族の反感を買いやすかったからです。しかし、一歩中に入れば、高い天井、美しい天井画、派手な内装と当時のメディチ家の権力をうかがわせるような建物でした。このように、ウフィツィ美術館は美術館としてだけでなく、一つの建物として見ても様々な当時の事情や権力、富の大きさを表している建物といえます。

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また、美術館の窓から見える景色もよく、ヴェッキオ橋、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂などを見ることができました。しかし、修復工事が様々なところで行われており、今回ウフィツィ美術館でも行われていたため、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂を見る景色に重機が入るといった状況でした。これにはガイドさんも「こんな光景をみたら過去の芸術家や建築家は大憤慨ですよ」とおっしゃっていました。あれだけ、厳しいルールで景観や芸術品を守っているフィレンツェですが、財政難には勝てないようでした。過去のものを現在に残していくにはどのような形であれ、大変な努力を必要とするといえます。

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サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオモ)
フィレンツェのドゥオモ。最大の特徴はクーポラです。この大聖堂の周りにはジョットの鐘楼、洗礼堂があります。
洗礼堂は「天国の門」という黄金の扉で有名ですが、別の扉が先につくられ、それが好評であったのでつくられた。ちなみに現在、本物は保存状態をよくするために、ドゥオモ博物館に保管、展示されています。
ジョットの鐘楼にはその名のとおり鐘があります。414段の階段を登り塔の上まで行くことができる。イタリア国内では地域ごとに鐘の音が違い、イタリア人は自分の故郷の鐘の音を聞き分けて故郷を思い出すそうです。美しい鐘の音でしたが、聞き分けられるかといえば自分には難しそうでした。イタリア人の故郷愛を感じるエピソードでした。
さて、ドゥオモ周辺での行動には注意が必要です。人の多い場所なので、写真を撮ることに気を取られ上ばかり見ているとすりにあいます。また、署名活動に扮して募金させられることもあります。実際、自分達も麻薬取締に関する署名をせまられました。簡単な日本語で「薬だめ、許さない」などとしゃべりかけてきました。対策としては、無視するのが一番です。こういったようにガイドブックにのっていることがおきたりするので、注意が必要です。

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ドゥオモの象徴であるクーポラには並んで登ることができる。自分達は10分ほどの待ち時間でしたが、場合によっては30分近い待ち時間になる場合もあるそうです。中は400段以上ある螺旋階段でした。時々、回転の向きが変わっていて登る人の目が回らないように配慮されていました。このクーポラは外と中に二つのドームを作ることでできています。一つのドームでつくられた建物の例としてはローマのパンテオンでそちらは、一つのドームでつくられたものとしては世界最大になっています。また、ドゥオモのクーポラの中の壁は耐久性を考えてか1m近くありました。最後の数段はかなり一段の幅が狭く高さもあったので、のぼりおりが大変でした。しかし、ドゥオモの上からはフィレンツェの町が一望できる、とてもいい景色でした。

まとめ(フィレンツェ)
フィレンツェは観光中心の町というイメージを強く受けました。町全体でルールをつくり、過去の偉大な芸術や建築を受け継いでいく姿勢がとてもよく伝わってきました。

ローマ
ローマはその名のとおりローマ時代の遺跡で有名な都市です。代表的なものがコロッセオやフォロ・ロマーノです。この都市はどこかを掘ればローマ時代の遺跡が出てくるといわれるほどあちこちに遺跡が埋まっています。実際、バスで町中を移動していると時々、掘り出された遺跡が見えました。そんなローマでは今、中央を通る地下鉄の建設を試みていますが掘れば遺跡がでるといわれるだけにルート上に遺跡がみつかったり、また地盤の関係でいくつかの建物をワイヤーなどで固定する必要もでたりなど、なかなか進んでいないのが現状だそうです。ではなぜ遺跡が埋まっているかというと、ローマ時代の建築があまりに頑丈であったので、柱などはそのまま用い、残りはその後の建築の基礎として使うため埋め立てたそうです。そのため、現代に入って掘ってみたら大量に遺跡が発見されたそうです。このことからもわかるように当時のローマの人々は相当の建築技術を有していました。

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そんなローマですが、治安があまりよくないです。具体的には地下鉄、トレビの泉付近では非常にすりが多く、コロッセオのあたりではミサンガ売りに注意が必要です。ミサンガ売りとは、気の良さそうな感じで近づいて来て勝手に腕にミサンガをつけ多額の請求をしてくる人達のことです。特に男子は注意が必要なのかガイドさんに「メモはあまりとらなくていいからとにかく特に男の子は荷物に注意してなさい」といわれたほどでした。地下鉄のホームでも4人グループのすりがいたようです。また、ヴァチカンでも同じようにいわれ、すりには神聖な場所など関係なく、人がたくさんいればそこが仕事場なのだと思いました。
では、ローマの代表的な建築物について紹介していきます。
コロッセオ
ローマの遺跡の中でも最も人気な遺跡の一つです。80年にウェスパシアヌス帝によって建設された。この遺跡は円形の闘技場で午前は狩り、午後は剣闘士同士の戦いが繰り広げられていました。この闘技場はアーチ状に石を積み上げ、継ぎ目に鉄の釘と鉛を流し込みとめることでつくられていました。今では金属の部分は別途で利用されているため、柱の途中に直径が人の顔ぐらい(現地で実際に試してわかりました)の穴が空いています。また、基礎の部分はコロッセオの地上部分より一回り大きく地下に広がっています。この強固な基礎があるために、この巨大な建物は安定して建っていられます。またその頑丈につくられた柱の一部はヴァチカンにある、サンピエトロ大聖堂の一部としても用いられています。さらに、この地下には排水設備も備えてあります。元々ローマは世界で最初に排水設備を作ったとされています。
しかし、現在のローマの水に関するシステムは比較的遅れている、といわれていて時々水道から水が流れにくくなることもあるそうです。たとえ一時最先端にあっても常にトップを走り続けるのは難しいことだし、発展がとまり停滞すればすぐに置いて行かれるものなのだと思いました。

フォロ・ロマーノ

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ローマ時代の商業の中心にあった。左の写真部分だけでなく、小高い丘の上にも遺跡は続いており、小高い丘には庭園のようなものが広がっており、昔の宮殿のようなものがある。
また、祈りをささげる教会や偉大な王の墓もありました。特に権力者であった、シーザーという人物に関して、彼が死んだあと神になったという伝説が残っています。彼の名前が刻まれている教会の入り口のアーチに名前と共に「神なる」という意味の「DIVA」という言葉が刻まれていました。

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パンテオン
紀元前25年ごろに建設された神殿です。パンテオン最大の特徴はサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラと違い、ドームを一つで形成しているところです。このタイプでは世界最大のドームだそうです。てっぺんは日の光が入るよう空いていますなので、晴れの日でないと水浸しになります。内部空間を最大限に広く見せるように計算しつくされ建設されているので、この空間に入り身震いするような感覚があれば、建築家として相当の素質があるそうです。残念ながら自分はあまり感じることができませんでした。

まとめ(ローマ)
ローマ時代の遺跡の数々は年を経ているがどれも非常に丈夫なつくりをしていて、これほどのものを紀元前後の人々が造りあげていたことに大きな衝撃を受けました。

3都市の比較
ここからは自分達のまわった3都市を比較していきたいと思います。
特色
まずはそれぞれの都市の特色についてです。
共通点に関しては、どの都市も古くからの景観を残していることです。フィレンツェはもちろんのこと、ローマでは発掘された遺跡や教会を保存し壊さずに済むように地下鉄の路線を計画しています。ミラノでもドゥオモを保つために地盤の調査を行うなどの努力がなされ、また町のいたるところに城壁の門が残されています。このようにどの都市もそれぞれ過去の文化を残そうという努力をしています。
逆に違う点に関しては、大きくミラノと他の2都市で分かれます。ミラノは国内でも最大級の商業都市であるため、観光業よりは他のサービス業に力を入れている感じで、観光としての一面を持ちつつ、先端の発展も遂げている都市だと考えました。他の2都市は観光業中心というイメージでした。しかし、その中でも違いがあると思いました。フィレンツェはルネサンス期にこだわり景観的にも町の雰囲気的にも芸術の面でも町に入った瞬間にまるでその時代にタイムスリップしたかのような印象を与えています。ローマはローマ時代の遺跡などで当時の様子を味わうこともできますが、それだけではなくスペイン階段など一つの時代にこだわりきるのではなく人々が歴史的な文化を味わえるようにいくつかの時代のものを共存させています。
建築
次に建築の面から比較していきます。そもそも、3都市それぞれに残っている建物には異なる様式が使われている。ミラノであれば、ゴシック様式で比較的派手な外見と内装、フィレンツェは、ルネサンス様式で派手ながらもどこか控えめなイメージ、ローマは主にローマ様式で石材を積み上げた飾り気のない建築と一見全く共通点のないように見えますが、自分はこれらに強い共通点を感じました。まず、すべての建築物を見たときに圧倒的な存在感を感じたことです。それは壮大な構えから建築家や芸術家の魂を感じたからだと思います。また、事前に学んだ知識を通し、細部まで見た時に、はっきりとイメージに近い印象や思想が伝わってくるところです。どの建築物にもはっきりとした表情があり、芸術家や建築家達の持っていた思想を体現しているすばらしい芸術作品であるという点だと思いました。

考察
自分はイタリアに研修に行くに際し建築や町の特色の面を学び活動を行いました。それらを踏まえた上でこれからの更なる発展に必要なことについて考えていきたいと思います。結論から言えば「受け入れるという考え方を持って行動すること」だと考えます。
今回、研修で巡った3都市はフィレンツェと他の2都市という分け方もあると考えています。フィレンツェは良くも悪くもルネサンス期の景観や建築、芸術に固執していると思いました。これは、見方によっては現代の建築の否定に近いものだとおもいました。たとえ、現代の建築であってもそこには建築物を造りあげようと最善を尽くす建築家がいる、そういった人達によってつくられた建物には魂がこもっている、立派な芸術作品だといえるのではないか、と自分は考えました。その上でのこういった固執は安定をよび、停滞につながると思います。発展を目指す上で安定し過ぎることは妨げになります。もちろん常に不安定でも発展は望めないので創りあげてきたものを否定する必要は全くありません。フィレンツェが伝えてきた芸術は人類にとっての財産です。同様に日本でもこのような姿勢を見習い、戦争や核兵器の痛みなど伝えて行くことは世界の発展の上で非常に重要だと考えられます。そうした上でさらに現代のものを受け入れることは程よい安定と発展を促進するものだと考えました。これは、芸術や発展の面だけでなく、思想や宗教、人種が行きかう現代の社会の中で、「他者を受け入れ歩み寄る姿勢」が人と人のすれ違いを回避させ、無用な争いを無くし、相互理解を生み、やがては国際協調に繋がっていくと考えました。
ここにおいて、自分の普段を見返すとついつい気の合わない、考え方が大きくことなる人をよく考えもせず否定してしまうことが度々あった。こうした機会に学び考えたことを生かし、常日ごろから自分も他者を受け入れ、様々な考え方を知っていくことを意識してこれからの生活を送っていきたいと考えるようになりました。

感想

今回の研修を通して、日本での日常にありがたみを感じるようになりました。「日本は水と安全が無料の恵まれた国だ」とよく言われますが、自分は海外経験などほとんどなかったので、そういったありがたみを感じることなどありませんでしたし、言われても実感が湧きませんでした。しかし今回海外に出て、ガイドブックにのっているようなすりやお金を盗ろうとする人に出逢ったり、水も買わなければ口にできない環境にいったことで、初めて自国のすばらしさや良さを実感することができました。
最後にですが、このようなすばらしい機会を与えてくれた財団の方々、親、先生方、ガイドさん、数か月の間仲良く共に学び最高の時間をくれた仲間に感謝し、この貴重な経験を生かしてこれからの人生をより良いものにしていきたいと思います。