IT2018報告集_団体8

 第6回海外学習の研究レポート 1年ARMさん

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ポンペイ遺跡

基本情報
ポンペイとは、ナポリに面した1世紀ごろの古代ローマ都市。
最盛期の人口:1~2万
中心部の広さ:東西約700m 南北約500m

現在にいたるまでの主な流れ
西暦79年8月24日:ヴィスヴィオ火山の噴火。岩石や時速10mを超える火砕流、高温の有毒ガスが人々を襲う。5~6mにもなる火山灰によって街は消えた。多くの人々は、窒息死したという。
1709年:井戸を掘っていた農民が地下20mの地点で大理石の柱を偶然発見する。これにより大規模な発掘調査が始まる。
1748年:1700年ぶりに姿を現す。
1997年:ユネスコの世界遺産に登録された。

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小劇場(オデオン)

当時は屋根付きで、最高の音響効果を得ることができたよう。劇場だけでなく、集会場としても使われていた。ローマでは、このような半円状の劇場は存在しない。

浴場

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男性用と女性用に分かれていて、さらに冷水、温水、熱水があり、蒸気で温室が一定に保たれていた。脱衣室や食堂、マッサージ室なども完備されていた。床下や壁の中にある空間に熱湯を通すことによって、現代のサウナ室のようなものをつくった。

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丸い天井から水蒸気が水滴となって落ちてこないように、天井に溝をいれる工夫がされている。水滴が溝をたどって流れる仕組みになっている。

 

パン屋

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奥に見えるのが窯で、手前が石臼。石臼に開いている四角い穴に棒を刺して、動物または人力でまわしていたよう。遺跡には34件のパン屋があったことがわかっている。窯で発見された炭化したパンもある。残された古代ローマ時代の料理本によると、まだパスタやピッツァがなかった時代、蜂蜜やナッツ入りの甘いフォカッチャのようなものが食べられていたそう。

 

石膏像
学者が遺跡を発掘中、石のように固まった火山灰の中に空洞を発見した。不思議に思って石膏を流してみると、人間の型がとれた。これは、遺体部分だけが腐って無くなったことによってできた火山灰の中の空洞に、石膏を流し込んで作られた石膏像。ポンペイ市民が亡くなった瞬間の様子をありありと表している。

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写真の像は、身長が低いことから女性、また、腹部が大きいことから妊婦と推定されている。

水道管

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当時は既に上下水道があった。田舎の水源から水道橋を作り、水は街に入って水道管を通って全ての浴場、水飲み場まで流れた。毒があるとも知らず、成形しやすい鉛で水道管を作っていため、多くの人が鉛毒で亡くなったという。

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水飲み場
ポンプがまだなかったため、3階以上(5階建ての建物もあった)は水道が使えず、水飲み場から水を汲んでいた。
写真の右上に写っている像は、各飲み場で異なる。そのため、場所を示す目印としても使われていた。馬車をひいていたロバも同じ水飲み場で水を飲んでいた。時間がたつにつれ水が汚れてしまう為、水を流しだすための穴がある(写真の右下)。
石同士を繋ぐ芯は鉄筋でできており、当時のものが残っている。

 

フォロ(公共広場)

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人々が集い、話し合い、憩いの場となっていた。市役所や裁判所があり、行政や宗教の中心であった。周りには市場が並んでいたそう。

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看板
モザイク画で描かれた看板。下に書かれた文字には「猛犬注意」と書いてある。実際に、鎖でつながれたため逃げられず、もがき苦しむ様子の犬の石膏像がここでとられた。

道路

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両サイドに歩道があり、その間の少し段が下がっているところは馬車などが通る車道となっている。写真の中央は石で作られた横断歩道である。石同士の間隔は馬車がちょうど通れる幅となっている。これは、現在ヨーロッパ中を走っている電車のレールと同じ幅なのだとか。

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新聞
選挙前の政治家の宣伝や、殺人やお魚の値段などの毎日ニュースを壁に書いた。古代ローマ人は子供の時から学校へ通っていた為、字を読むことができた。